新説・日本書紀⑩ 福永晋三と往く
https://gyazo.com/a5a0754cd193e3fb44e5554273dcf893
2018年(平成30年)5月26日 土曜日
相次ぐ皇位継承争い
初代の神武天皇に続く2代綏靖天皇~9代開化天皇は「欠史八代」と言われる。古事記と日本書紀の記述に帝紀(系譜)はあるが、旧辞(事績)はない。この時代は後漢書で言う「倭国大乱」、桓帝と霊帝の時代(146~189)に「倭国大いに乱れ、更相攻伐し、歴年主無し」と記された時期と重なる。 一方、欠史八代にはすべての即位前紀が書かれており、皇位継承争いが相次いだことを暗示している。中でも、2代神渟名川耳尊(綏靖天皇)の即位前紀は過激だ。 136年3月、「神日本磐余彦天皇崩ず。時に神渟名川耳尊、特に心を喪葬の事に留む。其の庶兄手研耳命、行年已に長けて、久しく朝機を歴たり」。同4月、神武と東征を共にした手研耳命が2代大王に即位し、倭国を巡行した。その際、「腋上の嗛間丘(福智山か)」に登り、国を望み「ああ、良い国を得たものだ。内木綿の狭い国だが、蜻蛉の臀呫(トンボの交尾)のような形の山々に囲まれた国だ」と言った。これが、「豊秋津島倭」という国の名前の始まりと日本書紀は記す。 手研耳命は「二の弟を害せむことを図る」。記紀ともに「手研耳命の乱」とする一節だ。古事記では、神渟名川耳尊の母で手研耳命の妃だった伊須気余理比売が歌を詠み、神渟名川耳尊に危険を知らせたとある。「犀川よ 雲立ちわたり 畝尾山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす」 犀川は赤村から旧犀川町に流れる今川を指す。赤村には今川の流路が直角に曲がった地点があるが、神武崩御のころは畝尾山(香春一ノ岳)に北流していたと指摘する地理学の専門家もいる。 神渟名川耳尊らは先手を取り、手研耳命を殺す。「冬十一月、神八井耳命は手足が震えて矢を放つことができない。その時、神渟名川耳尊がその兄の持つ弓矢を取り、手研耳命を射る。1の矢が胸にあたり、2の矢が背にあたり、ついに殺した」。3年間大王の位にあった手研耳命暗殺の記録だ。 香春や田川に眠る天皇
2代綏靖天皇は140年に即位した。「葛城に都をつくり高丘宮(北九州市八幡西区上香月の杉守神社)という」。143年、クーデターにかかわった神八井耳命は死後、「畝傍山の北(香春町宮原の前方後円墳か)に葬られた」。綏靖天皇の没年は定かでないが、「倭の桃花鳥田丘上陵に葬る」とある。香春岳一ノ岳の南西約5㌔に田川市糒の天神山1~4号墳がある。この付近は「月の輪」とも呼ばれており、陵はこの中の1基と考えられる。 欠史八代の天皇には、奇妙な共通項がある。いずれも皇后が3人いるのだ。本文に1人、割注の一書に2人が登場する。最も記述が多いのが「磯城県主の女」だ。磯城県は現在の飯塚市立岩周辺にあたる。次が「十市県主の女」。十市県は旧若宮町都地だ。2人はともに前王権の倭奴国に仕えた物部氏の一族。倭国の乱は、神武朝の外戚(母方の親族)同士の主権争いの様相を帯びていた。 八代の宮や陵の所在が推定できるものを列記する。
八代の天皇たちも、田川とその周辺に都を置き、近くの陵に眠っていると思われる。
次回は6月9日に掲載予定です